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鉱物論 [Sources in Latin]

鉱物論.jpg
アルベルトゥス・マグヌス(沓掛俊夫編訳)
鉱物論(科学史ライブラリー)
朝倉書店 2004年 vii+188頁

第1巻 鉱物
 論考1 石の一般論
 論考2 石の偶有性
第2巻
 論考1 石の効能の原因
 論考2 宝石とその効能
 論考3 石の印像
第3巻 金属一般論
 論考1 金属の質料
 論考2 金属の偶有性
第4巻 金属各論
第5巻 石と金属の中間のような鉱物

訳注
編集者あとがき
参考文献
解説
編訳者あとがき
索引

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ラテン語からの訳。

中世の博物誌は、大きく分けて動物誌・植物誌・鉱物誌の三つがある。アルベルトゥス・マグヌス(-1230)は、神学者であると同時に、一人でそれらをものした博物学者でもある。ただし「神学者にして博物学者」といういいかたは正しくない。アルベルトゥスの中では、その二つの立場は別個のものではなく、一つの体系の中に納められるべきものであったからである。

アルベルトゥス・マグヌスはその高名に反して、それほど研究が進んでいない。理由の一つは、彼は自然哲学の大家であったが、近代の哲学研究者や思想史家が、自然哲学を「哲学」と見なしてこなかったからである。したがって、自然哲学は科学史の一部として扱われてきた嫌いがある。少なくとも日本ではそうである。今は少し変わってきたが、プラトンやアリストテレスの研究者で、彼らの自然思想(特にアリストテレスには膨大な量の自然思想文献がある)を考究する研究者は極めて少なかった。しかしながら、古代から近世において、自然哲学は形而上哲学と同じだけの重みを持つ哲学の一分野であった。これはとても大切な認識である。モダニストは、多かれ少なかれ、発展段階論的思考をもつがゆえか、「アルベルトゥスは過去の解釈を切り貼りしただけ」と斬って棄てる。中世的思考においては、「何をどう切って貼ったか」が重要となる。このような思考的断絶の契機は、もちろん科学革命に求めるのが自然であろう。哲学史にとっての科学革命が何を意味するのか、哲学関係者は考えたことはあるのだろうか。

小林剛「アルベルトゥス・マグヌスの視覚論」『中世哲学研究』23号(2004年)49-61頁
高橋厚「『自然の作品は知性の作品である』 中世アリストテレス主義自然哲学における『生成』の論理」金森修編『エピステモロジーの現在』(慶應大学出版会 2008年)347-68+437-40+477-81頁

このように近年の若手研究者は、アルベルトゥスの自然思想に十分な注意を払うようになった。とりわけ後者は、アリストテレス注釈者としてのアルベルトゥスの議論に通底する「形成力」に注目し、鉱物生成論の背景にある世界観というコンテクストに、アルベルトゥスのテクストを位置づける。なおカンギレーム云々は主題とは関係ない。

ただ自然哲学や錬金術といった鉱物に依拠する研究で一つ気になっていることがある。アリストテレス、アヴェロエスの思想はラテン語文芸共和国をつうじて普遍であるが、具体的考察の対象となる鉱物自体は普遍ではない。産出される鉱物の量や種類や意味づけは、地域によって異なる。ドイツ圏は比較的鉱山開発とそれに伴う冶金学の盛んな地域であり、私にはアルベルトゥス・マグヌスやパラケルススがそのようなドイツ圏出身であったことが偶然ではないように感じる。中世の鉱物誌をサーベイしたことはないが、ひょっとするとなにかあるのかもしれない。ないのかもしれない。これは思想史と経済史のはざまにある課題である。

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